トップ  >  忍城開城


関東7名城の一つと呼ばれ、戦国時代、石田三成に水攻めされても落城せず、天然の地形を利用した難攻不落で別名 浮き城とも呼ばれました。


 1479年(文明11)頃 成田15代親泰の代、享徳の乱に乗じ、忍館の忍大亟を滅ぼして此処に城を築城し成田氏の居城としたのが忍城の始まりです。

 天下統一を目指す豊臣秀吉は、残された関東の雄、北条氏を倒すため、徳川、伊達など諸侯を集め圧倒的な大軍をもって計られました。
 

当時、北条氏に加勢していた忍城の城主・成田氏長も小田原城に入り籠城、忍城は残った士卒・兵・農民ら二千が立て籠りました。

秀吉の関東征伐は、秀吉の威光を天下を知らしめる為、また豊臣政権の5奉行、秀吉の側近小姓上がりの光成らに実戦を経験させ箔を付けさせるためでもありました。

忍城攻めは、石田三成を総大将に任じ、長束正家、真田幸村、佐竹重成などを配下に、岩槻、松山城を次々攻め落とし6千人が篭城していた館林城をも3日で陥とし、その勢いで忍城なら半日、一日で陥落させられると考えました。天正18年6月 三成は、忍城を望むことができる丸墓山の頂きに本陣を構えると、果敢に攻めさせましたが、忍城は関東7名城の一つに数えられる堅固な城で、周囲は沼地・低湿地で囲まれ、大軍を持ってしても容易に近づくことすらできず城攻めは難渋を極めました。
三成は、近くを流れる利根川、荒川を利用した水攻めを行うことを決め、総延長14キロメートル(28キロという説もある)に及ぶ石田堤をわずか5日で建設したとあります。しかし忍城はついに落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となり、城側は大いに面目を施しました。甲斐姫の活躍など、来年映画化される「のぼうの城」の舞台です。 忍城は浮城ともいい水害の際でも水を被らないことから、その名がつきました。この城を水没させるのは、もともと困難だったのでしょう。秀吉の関東征伐で唯一陥とせなかった城で、三成は戦べたの評価を受けて、のちの関が原の命運をも決する出来事になりました。
 

7月5日、小田原城が秀吉に降伏し、忍城も降伏開城します。
しかしこの時の条件は籠城兵たちの罪は問わず、財産も保証するという戦国時代には
まれな降伏条件でありました。その後、甲斐姫は父と共に蒲生氏郷に預けられ、岩代福井城に移りました。ところが、父の留守中に家臣の浜田将監と弟・十左衛門が謀反を起こし、本丸を占拠し、義母も殺されるという事態が起きます。このとき甲斐姫は、異変を知るや謀反勢の兵を切り伏せつつ浜田兄弟を探し、父・氏長が異変を知って引き返して来たのと合流して二人を討ち取り、鎮圧したとされています。
 後にこれらの武勇伝を聞いた豊臣秀吉は、美しく強い甲斐姫を大変気に入って側室にしました。そのため、父・氏長は甲斐姫の口添えもあって1591年に下野国烏山城主として二万石の大名になることができたといいます。
 甲斐姫は大坂夏の陣による豊臣家滅亡の際には千姫のとりなしで死を免れ、豊臣秀頼の娘・天秀尼(秀頼の長女)と共に大阪城から脱出し、鎌倉の東慶寺に入って尼となったということです。
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