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歴史

天下統一を目指す豊臣秀吉は、大軍を率いて北条氏の小田原城を包囲しました。北条氏に加勢した忍城の城主・成田氏長は小田原城に入り、忍城は残った士卒・兵・農民ら三千が立て籠りました。石田三成は、岩槻、松山城を次々攻め落とし6千人が篭城していた館林城をも3日で陥とし、その勢いで忍城なら半日、一日で陥落させられると考えました。天正18年6月 三成は、忍城を望むことができる丸墓山の頂きに本陣を構えると、果敢に攻めさせましたが、忍城は関東7名城の一つに数えられる堅固な城で、周囲は沼地・低湿地で囲まれ、大軍を持ってしても容易に近づくことすらできず城攻めは難渋を極めました。
 三成は、近くを流れる利根川、荒川を利用した水攻めを行うことを決め、総延長14キロメートル(28キロという説もある)に及ぶ石田堤をわずか5日で建設したとあります。しかし忍城はついに落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となり、城側は大いに面目を施しました。甲斐姫の活躍など、来年映画化される「のぼうの城」の舞台です。 忍城は浮城ともいい水害の際でも水を被らないことから、その名がつきました。この城を水没させるのは、もともと困難だったのでしょう。秀吉の関東征伐で唯一陥とせなかった城で、三成は戦べたの評価を受けて、のちの関が原の命運をも決する出来事になりました。

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